「華の女子大生」の本当の意味

振り返ればx年前。女子大生だった頃の私は男なんて選び放題だと思ってた。

超絶美人ではないけれど、ほどほどに可愛いと言われ、

モデルのように細いわけでは全くないけれど、太ってもない。最近流行りのマシュマロボディーとも言えば報われる程度。

愛嬌は他の人よりはある。話を合わせたり、振られた会話にうまく乗ったり、そういうことは得意。

お酒も強いから、飲ませ上手と言われ、飲み会では引っ張りだこ。

ある程度の教養もあり、ビジネスの話もする。

とはいえ、同世代で大人数の超キラキライケイケの人とは合わず、全くそういう会には顔を出したことがない。

だからこそ、社会人とばっかり飲みに行き、合コンをし、付き合っていた。

多い時で週3回の合コン。月に換算すると二桁いく程の合コンやら飲み会やらに参加し、自分でお金は払わず飲み食いしていた。

それが当たり前だと思っていた。

商社マン、銀行員、マスコミ関係、広告代理店、スポーツ選手、弁護士、経営者、御曹司、、、

今振り返るとなかなかの社会的地位の人々ばかりと。

生粋の「女子大生」。しかも女子大の女子大生というブランドは、とてつもなく強く、私にパワーをくれた。

自分の実態以上のパワー。何倍もの力になるパワー。

そんな日々が続くと、「可愛いね」と言ってもらうことが当たり前になって麻痺してくる。

「綺麗だね」と言われることが「おはよう」と同じくらいに聞こえてくる。

奢ってもらうことが当たり前になる。

合コンで1000円でも払うことがあれば、その後の女子会でブーイング。「ありえないよね〜」の嵐。

だから学生とは飲みにいかない。だって払わないといけないもん。そんなのお金と時間の無駄だと思ってた。(もちろん、意中の人は別だけど。)

学生の合コンに誘われても一旦保留。スペックに応じて決める。

だからどんどん麻痺してくる。

どんな男でも落とせる気がしてくる。本気になれば付き合えると思ってる。

むしろ、私たちと飲めてよかったね、くらいの傲慢な考えになる。

美人すぎない、細すぎない、愛嬌があって、一緒に飲むと相手を立てる、バカな話ばっかりしない、頭がいいところも見せる、お酒には飲まれないけど同じペースで楽しむ。

そんな人と飲めてよかったねって。

女子大生なんてそんなものだろうか。

よく「華の女子大生」っていう言葉を聞くければ、女子大生という言葉に「華」をつけるのはとてもぴったりだと思う。

キラキラしていて、希望があって、子供から大人になっていく、社会を知りたいという願望とまだ甘えたいという子供心、守ってあげたいようなすぐ飛び立ってしまうような。

そんな人。

しっかりしているようで危なっかしい。

見てみたい、聞いてみたい、触ってみたい、踏み出してみたい。

そんな欲求の塊。

傷つくことすらも経験だと思ってる。失敗した自分、可愛そうと言われる自分すらも望んでいる。

だから振り返らないし後追いしない。

「華」の本当の意味はそこだと思う。キラキラしている部分じゃなくて、もっとこうじとっとしているもの。荒い風は当たらない花壇の中にあって、キラキラした太陽の方をいつも見てる。もっと綺麗に咲きたい、もっと綺麗に咲けば、もっと注目してもらえる。脆くてか弱くてちょっとぶつかると枯れてしまいそうになる。

そして、長い時間はもたない。すぐ枯れちゃう。

そんな「華」。

今になってわかることは、囲いの中からしか世の中を見れていないことが、こんなにも人を盲目に、そして傲慢にするんだということ。

そしてだからこそ、わたしからしたら「遊んであげていた」人たちも、彼らに遊ばれていただけだったんだなって。もうどれだけの人と遊んだのかなんて覚えてもいないけど、結局それは大人の仲間入りをしたかっただけなんだろう。同級生よりもちょっと上に見られたかっただけだろう。

意味のないプライドで自分をすり減らして、どんどんどんどん根っこが細くなっていく。

それどころか、切り花のように地面に根を生やさず、その都度その都度相手に合わせて自分を選んでいく。

そんな危なっかしい「華」。

社会人になると、フレッシュが認められるのは1年目だけ。

危なっかしい魔法がすぐ溶けてしまうから、本当の自分に直面する。

あーわたしってただの人だったんだー

って、自分に幻滅したりする。

でもそれが本当の自分。今までの魔法にかけられていた自分はもういない。

現実と向き合った時、なんとなくスッキリするけど、なんとなく寂しい。

三十路の今もそう。結婚してもそう。

まだどこかに「女」の自分がいるんだろう。

バブルを経験した人たちみたいに、本当は当時の感覚からなかなか抜け出せていないのかもしれない。

「華」は脆いけど、粘りっこくつきまとう。

そこから抜け出したいような、つきまとってほしいような、何とも不思議な感覚だ。

シンデレラのように、魔法が解けても魔法以上のものを手に入れられる程、現実は甘くないよ。

 

 

 

女子はいつから女性になる

25歳を迎えた時、友達と誕生日会で笑って言ってた。

「もうアラサーだよ〜!はやい〜!」

って。

でもその「アラサーだよ〜」って言葉の裏には、

でもまだまだ若いし大丈夫。女性がちょうどいいのは25歳くらいでしょ!

っていう思いがあって、全然焦りとか不安とかはなかった。

今考えると、「アラサー」というフレーズ自体をバカにしたように使っていたように思う。

それが若いということか。

その頃は、まだまだ自分は「女子」だと思ってた。

いや、「女子」と「女性」のいいとこ取りをしていると思っていた。

それを楽しんでた。希望しかなかった。

女子とはなんだろう。女性とはなんだろう。

本当はどっちでもいい。一番自分が気にしてる。それだけのこと。

でも、自分が「女子」ではなくなったなと思う瞬間がある。

 

例えば、

なにも予定がない日は、おしゃれしなくてもいいと思う。

食が細くなる。

夜何回も起きる。

可愛い雑貨を買わなくなる。

部屋を見渡すと黒と白とグレーと茶色で揃えられている。

カクテルを飲まなくなる。いや、飲めなくなる。甘すぎて。

ケーキは一口食べれば十分。

スイーツパラダイスには近づきたくない。

化粧は5分で終わる。

予定がない日は化粧をしないで外出する。

雑誌を買う頻度が激減する。

・・・

 

ざっと挙げてみただけでもこんなにあった。「女子」という属性の人に当てはまらないこと。

ある種、「女子」でも「女性」でもないような気もする。強いて言うなら「おばさん」。

いや、おばさんはケーキを一口でやめないか。

女性って難しい。私が思い描いていた女性像は

 

毎日いろんな人と交流している。

毎朝髪を巻く。

化粧はナチュラルだけどバッチリ。

常におしゃれで、いつ誰にあっても「自分スタイル」を貫いている。

「わたしらしさ」を持っている。

仕事もプライベートも充実。

毎週本を2,3冊読んでいる。

毎日ご飯を3食食べる。

朝は植物と愛犬に挨拶する。

ヨガとジムに通っている。

定期的に女子会をする。

毎日湯船に浸かる。

ハツラツとしている。

・・・

 

こんな感じ。当てはまっている項目は1、2個くらいだろうか。

でも、このイメージって誰が作り上げたんだろう。別にグータラ過ごそうがどう過ごそうが自分の勝手だ。ジムに通おうが何しようが、どちらでもいい。

そういえば、わたしが大学の時に流行った言葉に「リア充」「キラキラ女子」という言葉があったが、そういう雑誌やメディアの中にいる世界の人が作り上げた幻想が、いつの間にか自分のイメージを作り出して、いつの間にか理想になっていたのではないかと思ってくる。それとも、私が不器用なだけなのか?全てを手に入れることなんてできないんだろうか?

 

女性とはそのバランスをよく知っている人、受け入れて自分らしさを見つけた人なのかもしれないなと思う。

そう考えると、まだまだ私は女性にはなりきれない。でも女子でもない。

だから女子と女性の間に新たな言葉を作って欲しい。

なんかこう、居心地のいい言葉ないだろうか。ちょっと前におとな女子という言葉が流行ったけど、それともちょっと違う気がする。

自分が女性になるのが先か、新たな言葉を見つけるのが先か、どっちが先になるか第三者的に見守ろう。

 

三十路ガールの属性

三十路ガール。

東京に住む三十路目前の女子。

地方を転々をしながら、東京に漂着した。

小中高とどちらかというと目立つ方。

高校から「女子」というイメージに執着するようになる。

都内の女子大に入学。

大学時代はそれなりにチヤホヤされる。

男に不自由したことは基本ない。

でもどこか寂しい寂しがりや。

都内のイベント会場でバイトをしながらお金を貯める。

女子会、女子力、女磨きという言葉が好き。(ついでに合コンという言葉も)

社会人になり、荒波のベンチャー起業に就職。

お金持ちになりたい思考が強い。

仕事では男女関係なく負けたくない。

でも女の幸せも欲しい。

わがままな自分が嫌になることもある。泣きたくなることもある。

でも結局頑張ろうと前を向く。

社会人4年目にして結婚。勝ち組の仲間入り。

欲しいと思ったこと、したいと思ったことはすぐやる。

お金の使い方が荒い。

未来に希望を持つが絶望も抱く。

そんな人。

三十路ガール。